目次
19世紀までのアルメニア人
アルメニア人は言語力、情報収集力、商才、交渉力、海外ネットワーク、権力に奉仕する才覚等がある上、
大国の対抗勢力になるような力までは持っていなかったので
アッバース朝ペルシャ、オスマン帝国、モスクワ公国、ムガル帝国などで
好待遇を受けたり重臣に重宝されていたそうです。
1600年頃イラン支配によって強制移住させられることもありましたが
その後ディアスポラ(離散)と呼ばれる人々は
ロシア、インド、東南アジア、果ては日本にまで交易範囲を含め
各地の人々と平和に共存していましたし
アルメニア・トルコ地域でも普通に暮らしていました。
それが1877年露土戦争の結果、アルメニア人居住区(北東部)をロシアが占領、
加えてロシアはオスマン帝国内にいるアルメニア人を支援し、
アルメニア人の権利向上を目指す改革をトルコに迫りました。
それに準じアルメニア人もオスマン帝国内で民族運動を起こすようになっていきました。
又、ロシアからトルコに逃げてきたムスリム難民が
「アルメニア人がロシアに協力している!」等という
噂を流したことなどもあって
それでなくても国内の政治が乱れていたオスマン帝国は
アルメニア人の分離独立を恐れて、非正規部隊を使って暴動を鎮圧、
両民族の関係は悪化の一途をたどりました。
悲惨な歴史:アルメニア人ジェノサイド
1896年にアルメニア人がオスマン銀行を襲撃したことにより
トルコ国内のアルメニア人への迫害が始まり
インテリ層の人が犠牲となりました。
1914にWWIが勃発すると青年トルコ党によって
アルメニア人の強制移住(事実上の国外追放)が実行され
そこで意図的にぎゃくさつされたと言われています。
ある日突然着の身着のまま連行され財産は没収、
何もない荒野をひたすら歩かされ
その間に銃●や暴行、飢餓や病気で無数の人が命を落としました。
(諸説あるが真ん中をとって約80~100万人が犠牲になったとか)
日本の学校ではユダヤ人迫害:ホロコーストについては教えますが
日本はこの事実を認めていないので取り上げられることはないと思います。
現在トルコ政府はこの事実は認めておらず正式な謝罪もしていないとのことです。
慰霊塔
こんな悲しい体験を忘れない為にも
エレバンでは毎年4月24日を追悼記念日と定め、
その日には老いも若きもそれぞれの手に花を持ち
ツィツェルナカベルトという小高い山上の慰霊地に出向いて
花を手向けるそうです。Hirokiさんのチャンネルで紹介。
私が訪れたのは記念日の翌日でしたが
慰霊塔の周りには大きな花輪が、
そして灯火の周りには数えきれないほどの花が積み上げられていました!
翌日でも多くの人がまだまだ訪れ、学生や幼児が訪れ鎮魂の歌でしょうか、
代わる代わる歌声も響いていました。
私は平和な日本で生まれ育った外国人、
知り合いにこの様な恐ろしい体験をした人を持ってないせいかもしれませんが
当時の人の苦しみや悲しみを心の底から理解することは難しく
ただただ「安らかに眠ってください」と祈ることしかできませんでした。
ジェノサイド博物館
博物館は地下にあります。アルメニアは被害者側、
当時スマホなんてない時代に悲惨な出来事の記録を残す術はなかったからでしょう、
思ったほど残虐な様子の写真は多くありませんでした。
それよりもアルメニア人が平和に暮らしていた頃の写真の数々、
トルコ人社会の中で溶け込み、それなりの地位ある人もいたり
教育もちゃんと受けていたと見受けられる幸せそうな写真が多かったことが印象的でした。
慰霊地を訪れての感想
実際に虐●があったのはイスタンブールやトルコ東部の集落や荒野です。
慰霊地で人が沢山なくなった訳ではないので
人の怨念や悲しみが残っている場所ではないはず。
重苦しい空気は感じられませんでした。
現代のアルメニア人がこの悲惨な歴史を今も忘れず
追悼日には参拝を欠かさず、
この場を通じて後世にちゃんと伝えてる姿は
日本の広島・長崎と同じだなと思いました。
又、アルメニア人のアイデンティティを
強く持ち続けているということ、
自分たちの住んでいる土地を何としても守りたい、
そんな強い思いが20年以上にも及んだナゴルノ・カラバフ戦争にも現れている気がしました。
戦争や他国の都合で国境や領土が決められ、
そのせいでそれまでそこに住んでいた人が強制移住させられる、
島国日本では想像を絶することです。
北方領土問題を抱えるわが国ですが、もし領土が返ってきたとしても
現在多くのロシア人が住んでいる土地、どうなるんでしょう?
同じような問題や紛争が起きてもおかしくありません。
アルメニアを訪れる前に是非観てほしい映画 3本
●The Promise(君への誓い)2016年
田舎から医師を目指してイスタンブールに出たアルメニア人青年がジェノサイドに遭うストーリー。
大虐●がどの様に行われていったか具体的に想像でき、大変参考になりました。
●アララトの聖母 2002年
アーシル・ゴーキーと言うアメリカに渡って画家になったアルメニア人の幼少期に経験した大虐●の記憶。
渡米後も大虐●のトラウマで悩み、自ら命を絶ったそうですが、今もディアスポラの人々の心の奥底に
深刻な暗い影、一生消えることのないトラウマを残しているということがわかります。
●The Cut Trailer(消えた声がその名を呼ぶ)2014年
「〇の行進」の途中で喉を切られ声を失った主人公が、生き別れの娘を探すために
執念でトルコ、中東、中南米、そして最後にはアメリカにまで渡るというストーリー。
ジェノサイドの様子や生き残った人々はその後どんな人生を送ったのか、
又世界各地にいるディアスポラのネットワークがどんな風になっているのか
ということが理解できました。
アルメニアで米国から観光に訪れた女性に出会いました。
彼女の祖父はディアスポラだそうです。
その祖父は祖国やジェノサイドのことを多くは語らず
彼女は当時どんなことがあって、先祖の国はいかなる国なのかを自分の目で確かめたくて
エレバンを訪れたと語っていました。
実際にジェノサイドを経験されたのかはわかりませんが
100年以上経った今でも孫に語るのをためらうほど関係者は
心に傷を負っているのかもしれないと思いました。
アクセス
エレバンの地下鉄は路線が1つしかなく、
反対にバスは路線が複雑で小銭用意必須ということもあり
公共交通機関の利用はおススメしません。
反対にタクシーは安く、タクシーアプリ(Yandex)で呼べばすぐに来てくれるのでおススメです。
共和国広場から約4㎞、600AMD(約245円)。
私は山のふもとで降ろされたので坂道を徒歩で行きましたが慰霊碑のすぐ傍まで車が入れるルートが
あるみたいです。